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戦災戦士’sコラム | 明寿会 | 川崎市 介護事業所

2014年07月の記事

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    世界中に日本式の「おもてなし」が「日本人の文化」だとして広がった。

    私たちのパーソンセンタード・ケアの「おもてなし」は無駄なおしゃべりをしない一味違ったものである。

    わたしたちがお世話する方々は東京空襲、2ヶ所の原爆投下、沖縄での地上戦などで逃げ惑い生き延び、戦後は戦勝国による食糧封鎖、医療封鎖などで飢餓や疾病蔓延などの生命の危機を乗り越えてきた。

     

    しかもその過酷な環境のもとで子どもを育てて教育をつけ、社会の復興を成し遂げてきた方々である。

    したがって、わたしたちが運営するグループホームをはじめ通所施設は地域の知恵の宝庫館なのです。

    人間生きて民族復興のため、荒廃のどん底から這い上がるためには感覚を研ぎ澄ませ、あらゆる創造力を結集させて生活能力を向上させなければならない。

    そうした80年、90年の環境にいると、そろそろ苦労を忘れたいと思うときもあるでしょう。

    そうして直近の記憶を忘れていった方々のお世話を毎日しています。

    わたしたちがお世話する、介護職の親や祖母、祖父にあたる高齢者は何も言わなくても若いヘルパーが意図することはピンと来るのです。

    あまりクドクド言われるほうがストレスになり、イライラさせてしまう。

    わたしたちの「おもてなし」は、NHKやメディアの求める立場の方々の生理的コンフォータブル要求対応ではなく、人間の尊厳、尊敬のおもてなしです。

    風呂に入らないおばあちゃんには、服を脱いで、石けんつけて、頭はシャンプーでと、あれこれ言わない方がいいのです。

    もしわからないことができたら、〝あなたこれはどうするの?〟と聞いてくれる「なじみ」関係づくり、信頼関係づくりこそが必要なのです。

    この「なじみ」関係が年配者と若者の両者の間に成立している事こそが、あなたは立派な認知症者対応専門介護者ですよという、おばあちゃんのくれた勲章なのです。

     

     

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    私たち昭和19年生まれの人間は、現代の高齢者と若者たちの中間にあたり、ちょうど橋渡し役である。

    私たちが小学校にいくと、欠食児童というのがいた。お昼のお弁当をもってきていない子供たちである。

    同級生で弁当を持って来れない。

    それに対して、先生が自分の弁当を分けてあげていた。

    このようなことは平気でやっていた。

     

    もちろん自分たちの弁当といっても、当時日の丸弁当といって、弁当箱の真ん中に大きな梅干しがどっかとあぐらをかいているものだったし、目刺しや漬け物やイカのつくだ煮などが弁当箱のハシっこについていたものだった。

    私もどうにか小学校時代には日の丸弁当をもってきていたが、中には卵焼きなどを入れてもらっている分限者(ぶげんしゃ)の友達もありうらやましかったのを覚えている。

     

    私の田舎は九州の山奥で、それこそ近くに平家の落人部落がある椎葉村があるようなところで、海岸沿いに猫の額ほどの平野があり、その裏には平野の何十倍もの膨大な森林が待ち構えている所です。

    だから、弁当の時間になって箸を忘れたらどうするか?

    先生にことわって裏山に箸を取りにいったものだ。

     

     

    ゴカイ先生の思い出・・・・

    中学の先生で数学の先生がいた。

    たしか甲斐というような名前の先生で、結核をわずらったとかで少しやせて猫背ぎみだった。

    少し枯れたような声で数学をおしえていた。

    中学校は川の河口にちかくは広大な干潟がひろがり、魚つりやハマグリ掘りにちょうどいい場所で、昭和32年ごろの中学生は元々兵舎を改造した中学校の窓から、勉強よりも窓の外の景色が関心があった。

    それは私たちよりも鳶が海中めがけて自由に魚とりをしている光景をうらやましく眺めていた。

    鳶からみると豊富な魚の群れが眼下に見えたのだ。

    空中高くから羽を縮めて急降下し、川の中の魚に突撃し、その鋭い足の爪でボラなどをつかみ上げて山の巣へ持ち帰っている。

    それをみていると、先生のチョークが飛んできて授業中であることを思い出させていた。

    数学の甲斐先生は魚釣りが好きな先生でした。しかし結核をわずらったせいで、体力は少し落ちていたのだろう。

    その先生が考えた生徒への罰はゴカイ掘りだった。

    校舎の隣の河口の浅瀬にはゴカイが無数の孔を明けて生息していた。

    甲斐先生は、宿題を忘れた生徒に罰として、ゴカイ掘りを言いつけたのだ。

     

    この他、突然授業中に雷を落として居眠りをする中学生を目覚めさせた英語教師の話しもあるし、独特の原爆理論の教師の話もおもしろかった。

    ネズミというあだ名をつけられた先生もいた。

    灰色の背広で口ひげはやした小柄な背格好が中学生からそうよばれていた。

     

    開業して35年になるが、3年ほどまえにデイケア室に瀧口がヘルパーに来た。

    やはり私とおなじ戦争のキズ跡をかかえた男であった。

    私は父が戦時中に結核で死亡している。

    母は再婚して私を育てたが、瀧口は自分の母が小学校時代に大病をして車イス生活になり、長男の彼がおもに日常生活の世話をしていた。

    私と同じ年齢なので小学校時代といっても日本社会全体が戦後の貧しい混乱期である。

    手も使えないので口に鉛筆や筆をくわえて立派な絵をかいている。

    本まで出した母親である。

    まだ小さな小学生時代から母親のお世話をしていたのは、周囲から奇異な目で見られたろうが、大変な親孝行息子だった。

    今、彼とデイケア室で戦災戦士ズのコーナーをつくって毎月一回2時間余りのプログラムをやっている。

    同じ年齢で、同じ時代を幼少時代をすごした同志であり、二人名付けて戦災戦士ズというわけである。

    出し物は共通してハーモニカ少年であり、現在は瀧口がハーモニカで私がギターで歌ったり、平家落人の歴史を講談風に瀧口が語ったりしている。

    昔大学時代に所属した児童演劇部の経験がいきているのであった。

     

     

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